レジェンドすぎる登壇者によるシンポジウム「レトロゲームアラカルト」の様子をチラ見せ【編集部日記】

 2016年4月16~17日、静岡県沼津市プラサヴェルデにおいて、レトロゲームをテーマにしたシンポジウム「レトロゲームアラカルト」が開催された。

 レトロゲームとひとくちに言っても、定義があいまいで受け取る側によって何がレトロか、という議論はあるかと思うが、このイベントのレトロは「ガチレトロ」。新しいもので90年代、80年代の話は聴講者の常識として、『スペースインベーダー』以前の話が二日間にわたって飛び交うなんともマニアックなイベントだ。

 登壇者のラインナップも錚々たるもの。『スペースインベーダー』の父・西角友宏氏、アーケードゲームの歴史を記した唯一無二の名著『それはポンから始まった』著者、赤木真澄氏、アーケードゲームの保存なら日本一の在庫量を誇る高井商会代表・高井一美氏……と来て、ほかにもゲームの神様・遠藤雅伸氏や『ファミスタ』の父・岸本好弘氏、ナムコ黄金期のビジュアルを支えたMr.ドットマンこと小野浩氏ですら、この順番のご紹介になってしまうほどの豪華絢爛なラインナップ。

 講座の内容はといえば、レジェンドクリエイターたちの思考をたどるものもあれば、ゲーム保存に関する発表、ただただ好きなアタリのゲームのすばらしさを語るもの、果てはピンボールを持つにはどうしたらよいか? というテーマまで、それぞれニッチながらもその守備範囲は広い。

 残念ながら詳細な内容は来場者のみの特典ということなので、差し支えない範囲で、いくつかのセッションについてレポートをお届けしよう。次回参加のモチベーションとしていただければ。

会場風景

◆知られざる海外ゲームを遊ぶ

 たます氏とでんじんプロ氏による、ATARI VCSの布教講座。ATARI VCSのゲームといえば『E.T.』をはじめ「つまんない」と言われるが、じゃあ実際みなさん遊んだことありますか? ということで、大量の実機とROMを持ち込んでの実演。ATARI VCSの実況プレイとなった会場は、『ペレサッカー』、『スーパーブレイクアウト』、『G.I.ジョー』など、名作パドルゲームの数々をデモ。基本的に対戦プレイしかない(一人用がない)ゲームが多く、「対戦相手がいるのはこういうときだけだから」と、たます氏の弁。

 最後は史上最高の反射神経ゲームと彼らが主張する『KABOOM!』の実演で締めくくった。「動画を見ても面白さがわからないうえに、マニュアルがないとよくわからないゲームが多いけれども、ぜひ触れる機会があったら触ってほしい」とのことだった。

チラシ
▲会場で配布されたATARI2600の説明ペーパー。

◆海外のゲームセンターの話

 つづいて同じく海外のゲームセンターに行くのが趣味となっているたます氏と、OBSLiveのおにたま氏によるセッション。アメリカではもはや日本以上に絶滅しているゲームセンターだが、現在は博物館的なところか、Barcadeのようなゲームバー形態で生きながらえているものが大半だという(それでも数えるほど)。

 アメリカのアーケードゲーム事情を伝えていくうちに、話題はアメリカのプロゲーマーの話に。とはいえ、ここはレトロゲームアラカルト。e-SportsやEVOの話題など一切なく、プロゲーマーといえばパックマン・チャンピオンで有名なビリー・ミッチェル氏。

 氏が映画『ピクセル』におけるファイアースターターのモデルであるだとか、元ネタはTwinGalaxiesというゲームセンターが主催する大会で、プロゴルファーやボディビルダーなどなど、キャラが立ちすぎているゲームチャンプたちがたくさんいるという話を披露。最近では彼らを題材にしたドキュメンタリー映画も制作されているという。

◆それはポンから始まった 赤木真澄氏から見たアミューズメント史

 アーケード史『それはポンからはじまった』を著した赤城真澄氏によるセッション。てっきりゲームセンターのはじまりは1970年代に……というところから始まるかと思えば、コインオペレーションの始まりは19世紀、エジソンの蓄音機(「フォノグラフ」)の発明より始まる、というものすごい内容を皮切りに、戦前、戦後のゲームセンター史を披露。

赤木

 たとえば、お金を払って蓄音機の音を聞く場所「フォノグラフパーラー」がハドソン川の汽船内にあったという。日本においては1920~30年代に宝塚でフォノグラフパーラーの日本版ともいえる「蓄音機屋」という営業形態が存在したという(車に蓄音機を複数台載せた移動式)。

赤木エジソン

赤木パーラー

赤木蓄音機屋

 しかし、第二次世界大戦で国内の娯楽は一度ストップ。一方アメリカは戦時中でもピンボールやジュークボックスを中心に発展を続け、とくにガンゲームが流行。これを受けて戦後、東京・日比谷にガンコーナーが作られた。オリジナルで言えば、戦後の国内メーカーでは関西精機製作所の『ミニドライブ』『インディ500』などを紹介。

3人ガンコーナー

 続いて1970年代になると、TTL制御(電子回路によるもの)のビデオゲームが登場しはじめる。まったくこれまでにないゲームが多く登場するようになったさまを赤城氏は「未開の大地である」と表現した。

 しかし、73年、74年ごろには「ビデオゲームは一過性のブームで、しりすぼみになるかもしれないので、そこに注力するのはいかがなものか」と、まるでいまのゲーム業界でも聞かれるようなやりとりがあったともいう。

 80年代に入ると、アメリカの大手メーカーであるGottliebやBallyが疲弊していき、一方『スペースインベーダー』に沸いた日本のメーカーが海外進出を果たしていく、という内容で締めくくった。

◆「アーケード黎明期を語る座談会」

 2日目の最後は「アーケード黎明期を語る座談会」というテーマで、赤木氏、西角氏、高井氏が登壇。資料に乏しい1970年代のアーケード史の貴重な証言を聞くことができた。
 以下、登壇者の印象的なコメントを抜粋する。

・万国博覧会のゲームコーナー・エキスポランドがおそらく日本最初のゲームコーナーではないか。『インディ500M』(関西精機製作所)を設置したところ、1日15000円の売り上げがあったという。当時の大学初任給は3万円前後の時代。

・そのころ『スカイファイター』(タイトー)は1回30円だった(西角)

・ゲーム料金に100円玉を使うようになったのは『スペースインベーダー』から。それまでは独立した店舗でやっていける売り上げではなかった(高井)

・遊園地などと一緒にあるのがふつう。フリッパーが1/3、あとはドライブ、ガンゲーム。お店は楽しそうでなければいけないので、配置を工夫していた(高井)

・70年代前半においてはアメリカ製のフリッパーが安定して稼いでいた(赤木)

テーブルタイプを作って喫茶店に持って行ったのはおそらく営業の発想(西角)

・おけるところさえあればとにかく売り上げがあがる。山小屋でもいいから。テレビゲームはエレメカに比べて故障しない。故障率が9割改善した(高井)

・最終的には高級料亭に『スペースインベーダー』を入れてみたがあれはダメだった。名曲喫茶に入れたら客が来なくなった(西角)

・1980年序盤はインベーダーブームの夢よもう一度、ということで追い求めていた時代。若い人が業界に『スペースインベーダー』で入ってきたことで進歩したと思っている(高井)

・将来ゲーム作りたいという子供が出てきたのはこのころのはず(西角)

・ミニアップライトへの組み換えをして駄菓子屋に持って行って、20円、30円で子供に遊ばせはじめたのもこのころ。余った機械の転用はそれしかやりようがなかった。モニターも流用。箱さえあれば作れていた(高井)

 などなど、当時を見てきた先輩方の貴重な証言が続出する稀有なセッションとなった。まとめとして、

・必ずアイデアをもって、ひとつのゲームを立案してほしい(高井)

・新しいテクノロジーが入ってくるのはやむをえないが、温故知新で、古いエレメカを勉強してもらってゲームを作ってほしい。建築でもそう(西角)

・『テトリス』『電車でGO』みたいに誰も予想してなかったところから出てくる例もある。もっと可能性を信じてチャレンジしてほしい(赤木)

 として、イベントを締めくくった。

遠藤
▲こちらは別部屋で行われていた遠藤雅伸氏らによるセッション。出演者との距離も近いので質疑応答もかなりヒートアップしていた。

スペース
▲とても貴重な基板『スペースサイクロン』の実演も。西角氏と高井氏が共演することにより稼働が実現したという。ほかにもゲーム保存協会による『デコカセットシステム』の実演や、入力の再現装置のデモなど、実際に触れる展示が多かったのもうれしい。

 もし次回以降のチャンスがあるのなら、ぜひ足を運んでいただきたいイベントであった。